物資が絶対的に不足した日本を救った「CAREパッケージ(ケア物資)」を送ってくれた日系人への感謝を忘れない
8月15日は、終戦の日であるとともに、東京・横浜地域で「CAREパッケージ(ケア物資)」配送が開始された記念日でもあります。
1948年8月15日に、米・味噌・醤油にアメリカのコーンビーフ等缶詰他15品目が詰まった、日本向け救済小包「ケア物資」の配布が始まりました。
米・味噌・醤油など日本の食文化に配慮した「ケア物資」の中身は、日系移民の深い関わりを示すものであり、送られた物資のかなりの割合が北南米の日系人によるものと推察されています。
実に、1949年4月28日、衆議院において、松本瀧蔵議員(広島県選出)外12名により、「ハワイ並びに北南米在留同胞および日系市民の対日援助に対する感謝決議案」が提出され、ただちに可決されました。その本文では、「終戦以来、ララ物資、ケア物資、救済小包その他各種の形式により、ハワイ並びに北南米在留同胞および日系市民のわれわれに示された援助は莫大な数量にのぼり、真に感謝に耐えないところである。これらの厚意がいかにわれわれの慰藉と激励となったかは今更いうまでもない」と述べられています。
日本に対するCAREの活動は、日系人のみが支えたものではありませんが、戦後、移民先の国で自身らも差別などをうけ生計を立て直すのに苦労するなか、祖国の同胞の助けになろうと多くの日系人の方々が尽力してくださった事実を後世に語り継いでいきたいと思います。
1948年から8年間にわたり、およそ1,000万人の日本人が「CAREパッケージ(ケア物資)」を受けとりました。「CAREパッケージ(ケア物資)」の配布は、日本の復興の兆しを見届け1955年12月30日をもって幕を閉じました。そのおよそ30年後の1987年5月、日本にもCARE事務所が設立され、世界への恩返しが始まりました。
現代の「CAREパッケージ」は、その形態や規模も様々です。今日では、CAREの緊急支援物資は、途上国の自国経済を助けるために、極力、現地あるいは周辺国で調達されます。そして生活様式や宗教・文化へのよりきめ細やかな配慮がなされ、ますます多様化されています。
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