
日本で昭和22年を迎える頃には、ヨーロッパ12カ国での復興のめどが立ったことから、CAREはヨーロッパ向けの支援を終え、アジアに目を向け始めました。中でも戦禍の最もひどかった日本にまずその支援の手を差し伸べるべく、昭和22年10月29日、日本政府(片山内閣)との間で基本協定に調印しました。
そして翌年の昭和23年5月、CAREは廃墟と化していた日本の地に初めて足を踏み入れました。本部事務所を現在の横浜市中区弁天通4-63に置き、同年7月9日、貿易庁(現在の経済産業省)と実施協定を締結、ただちに活動を開始しました。
この日本での事務所設置は、CAREにとって初めてのヨーロッパ以外での活動でした。そしてその活動は、本部事務所(横浜)を起点に東京、広島、長崎の被災地へと食糧や衣類の入った「CAREパッケージ」とともに拡大していきました。
日本に届けられたもの
それでは、CAREパッケージはどのように日本の人々の手に届けられていったのでしょうか。まず、アメリカから届いた荷物は横浜港に陸揚げされ、仮倉庫に納められます。その後、郵便小包として送られ、郵便局の窓口にて引き渡す方式でした。これは、物資を必要としている人たちに直接かつ確実に届けるためにCAREが考えた方策でした。
当時、日本に届けられたCAREパッケージは、乳児向け食糧パッケージ、幼児向け食糧パッケージ、標準食糧パッケージなどと発育段階に応じて分かれており、また、缶詰類の食べ物が入っている場合は缶切りもいっしょに用意されているなど、細かい配慮が見られました。パッケージに入っていた標準的な食糧類の例を挙げてみると、全脂粉乳、チョコレート、干しぶどう、小麦粉、砂糖、ベーコン、マーガリンなど。それ以外の生活必需品については、石鹸、木綿生地、シャツ、毛布などがありました。さらに、医療器具、大工用具、左官工事や電気工事のための道具や材料、農作物の種子や農具なども多数送られてきたのです。
食糧や衣類を送る緊急支援にとどまらず、資材や道具の支援も同時に受けたことで、職業訓練の実施や技術者が就業できる環境作りが可能になり、日本の被災者の経済的自立を大いに助けました。これが、今日のCAREが活動を通して実践している「自助努力の支援と持続的発展」の先がけをなす精神です。
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| CAREパッケージを受け取るため、郵便局の窓口の前に並ぶ人々 | CAREパッケージをお配りになる高松宮妃殿下 |
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