生きるチカラを信じて支える ケア・インターナショナル ジャパンは、貧困の根源の解決に向け、災害時の人道支援を行うとともに、「女性や子ども」に焦点をあてた活動を通して、最も困難な状況になる人々の自立を支援しています。

「CARE パッケージ」から始まった ケア・インターナショナル ジャパンの歴史

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CAREパッケージの前にならぶ日本の子供たち
戦後CAREは戦争による破壊で苦しむ日本の人々へ船で支援物資を運び始めました

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2人の娘と映るコジマさんとCAREパッケージを持つ娘さん
戦後荒廃したアジアやヨーロッパでは多く人々が生活に苦しんでいました。22のアメリカの団体がCAREパッケージの設立に貢献し、当時のアメリカ大統領トルーマンも含め数千人のアメリカ人が協力しました。CAREは10ドルで4か月以内に支援物資を指定された住所へ届ける保証をしていました。

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郵便窓口からCAREパッケージを受け取る親子
CAREは戦争で影響を受けた彼らに食料や衣料品を送り始めました。

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当時送られたCAREパッケージの中身の一部

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フタバ幼稚園(兼孤児院)にて、子供たちにCAREパッケージを配る幼稚園の代表者(左)と高松宮妃殿下(右)

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子供たちにCAREパッケージを配る活動に参加する高松宮妃殿下

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感謝状を書く夫妻
この4人の子供たちと東京の掘っ立て小屋街の一室に住む日本人の母と父は与えられたCARE Food Crusadeパッケージに感謝を書いています

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広島の最悪のスラムの深くで生きる幼い9歳の少女マスダヒロコさん
彼女の父親は原爆で死に、この時母親はヒロコさんと彼女の幼い2人の兄弟を養うために
一か月11ドルの工場で働いています。

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CAREパッケージに入っていたチョコレートをほお張る女の子
当時CAREは食料や衣料品の入ったCAREパッケージを船で日本に運んでいました。

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立教大学の学長ササキユウノさんがCARE食料パッケージの一部を学生や学部の人たちに見せているところ
これらのCAREパッケージはアメリカの個人や団体から送られたものです。

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プリンストン大学Chapel Benevolence委員会からCAREブックファンドを通して
明治学院大学へ送られた350$相当の本を確認する学長のMurata Shiro教授。
プリンストン大学の学生は日本の学生を助けるために支援を使うことのみを望んでいたため、
卒業生が見つけた学校へCAREは支援を行いました。

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US SIGHTLESSによる失明した軍人への支援
第8軍副官Colonel J.P. Donnovinが3人の失明した日本の元軍人に対し
イリノイ州にあるthe Blinded Veterans教会から寄付されたCAREパッケージを渡しているところ
中には毛布が入っていました。

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韓国のCARE事業のリーダーの助手であるCharles Marshによって
コウヤヨシさんを代表とする津田塾大学へアメリカからの支援としてCARE Book Fundが届けられました。
当時CARE Book Fundでは最新の科学や技術の本を世界の多くの発展途上国へ送ることが可能で、
50ドル以上の寄付者は本の分野や国、特定の学会を指定することもできました。

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CAREの到着
沖縄軍政長官Maj. Gen Josef R. Sheetzと沖縄知事コシンシキヤがAKARラジオ局に
島民とアメリカ人との個人間での必要とされる援助のマッチングを島民に伝えているところ
イリノイ州のOak Lawan(Gateyerの子どもたち)によって寄付されたCAREパッケージの第一プログラムの間、
沖縄戦により未亡人になった5人の母へ提供された。

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1949年4月27日日本の横浜で神奈川県知事ウチヤマイワタロウ(右)がハラロクロウ(左)とシマダエイコ(中央)へCAREパッケージを渡す。
これはブラジルから送られた最初のCAREパッケージでした。

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子どもたちや病弱な夫にチーズを切っているヨコクラヨシさん
小さな子どもたちはチーズを見たことがなくそれを”石鹸”と呼んでいました。
彼らはすぐにその"石鹸"がおいしいとわかるでしょう。

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アメリカからの援助
CAREパッケージが横浜のナイトウ家に届く。
彼らはオオカ川のボートの上の小さな一室に5人の子供たちと住んでおり、CAREパッケージを利用することができました。

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日本の横浜に14歳から24歳の16人ぐらいの男の子が彼らの家となった4つの木製の家に住んでいます。
彼らの話によると両親が戦争で亡くなり、家が破壊され、同じように苦しんでいる隣人や戦争の終わりで崩壊した政府に
助けを求めることもできず、これらの問題をなんとかする力や能力もない。
その男の子たちは彼らの食費を稼ぐために靴磨きやたばこの吸い殻集めとして働くために団結していました。
写真を撮る少し前、少年たちは野宿をしていたが、最近の台風の被害により、彼らの家を作る材料を手に入れました。
CAREパッケージは彼らのリーダーであるオガサワラタカシさんに渡されました。

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CAREパッケージを彼らのリーダーであるオガサワラタカシさんに渡すところ

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日本の学校に届いたCARE Children's Booksの一式が届き、瞬時にこれら2人の子どもを喜ばせた。
22のアメリカの組織の集合からなるCARE USAは
日本やヨーロッパ中の第二次世界大戦の生き残りへ命をつなぐ小包を送るために活動していました。

「CARE パッケージ」から始まった ケア・インターナショナル ジャパンの歴史

当財団が発足する礎となった「CAREパッケージ」。1948年(昭和23年)から8年間にわたり、1,000万人の日本人が支援を受けました。 毎月、米国市民の善意が郵便局から届いた時代がありました。 開けてみないと中に何が入っていのるかわからない福袋のような小包には、無駄なものは何一つ入っていませんでした。

日本に届けられたもの
「CAREパッケージ」は郵便局の窓口で受け取る方式でした。 これは、物資を必要としている人たちに直接かつ確実に届けるためにCAREが考えた方法でした。 当時、日本に届けられたCAREパッケージは、乳児向け、幼児向け、標準食糧など発育段階に応じて分かれていました。 また、缶詰類が入っている場合は缶切りも同封されているなど、細かい配慮が見られました。 標準的な食糧類の例を挙げると、全脂粉乳、チョコレート、干しぶどう、小麦粉、砂糖、ベーコン、マーガリンなど。それ以外の生活必需品については、石鹸、木綿生地、シャツ、毛布などがありました。 さらに、医療器具、大工用具、左官工事や電気工事のための道具や資材、農作物の種子や農具なども多数送られてきました。 食糧や衣類などの緊急物資に加え、道具や資材が送られてきたことで、職業訓練の実施や技術者が就業できる環境作りが可能となり、日本人の経済的自立に大いに役立ちました。 これが、今日のCAREが活動を通して実践している「自助努力の支援と持続的発展」の先がけをなす精神です。

さらなる発展を見せるCAREの支援
1949年(昭和24年)に入り、CAREは日本全国の小学校を対象に、学校給食用の脱脂粉乳の供給も開始しました。 当時の発育盛りの子どもたちに、脱脂粉乳を唯一の栄養源として安定的に摂取させていくための学童向け食糧支援事業の一環でした。 また、国会図書館に対して1,000ドル相当の医学書や科学書を寄贈、さらに明治学院大学、津田塾大学などの教育機関や公共機関にも書籍を贈りました。 その後、一般にもその対象を広げ、家庭内でも絵本などの図書を自由に手にすることができるようになりました。 こうした8年間にわたるCAREによる支援活動は、日本が経済復興の兆しを見せた1955年(昭和30年)12月30日にその幕を閉じました。

現代もなお、CAREの活動に息づく「CAREパッケージ」の精神
現代の「CAREパッケージ」には、米国製のミルクもセーターも入っていません。 今日では、CAREの援助物資は、途上国の自国経済を助けるために、極力、現地あるいは周辺国で調達されます。 そして生活様式や宗教・文化へのよりきめ細やかな配慮がなされ、ますます多様化されています。 さらに、現代の「CAREパッケージ」は、その形態や規模も様々です。 CAREは、援助物資の配布に留まらず、より良い教育へのアクセスを提供し、持続可能な農業を促進し、 村人による貯蓄貸付組合への参加を通じて家計所得の向上を支援しています。 現代の「CAREパッケージ」は、70年前のそれとは“中味”は違えど、当時のパッケージに詰められた“精神”は今も強く息づいています。