戦後77年:混乱期の日本を支えた「CAREパッケージ(ケア物資)」
終戦記念日に寄せて
今日、8月15日は終戦記念日。
77年という時の流れに風化されることのないよう語り継いでいきたいのが、戦後の混乱期を支えた「
CAREパッケージ(ケア物資)」です。
このケア物資は、個人が10ドル程度をCAREに送金することにより、送金者が指定した日本の個人へと、CAREが代理で郵便小包として届けました。団体間のやりとりではなく、個人と個人をつなげる点が特徴と言えます。
戦争の傷跡が残る日本へ、海を越えて届いたケア物資。この思いやりが詰まった贈り物を受け取った人々を、貴重なアーカイブ画像とともにご紹介します。
最初のCAREパッケージ
1948年、沖縄指揮官であったジョセフ・シーツ氏(写真左)と沖縄民政府知事・志喜屋孝信氏(写真右)は、琉球放送局(呼出符号AKAR)を通じて、米国から沖縄の人たちに必要な支援が届いたことをリスナーに伝えました。
同番組内では、イリノイ州オークローンの子どもたちから寄付された最初の「CAREパッケージ(ケア物資)」が、沖縄戦で夫を亡くした、5人の子どもを養う女性に贈られました。
戦争孤児たちへ
1949年の横浜。戦争孤児となった14〜24歳の少年16名は、このような小さな掘っ立て小屋に住むしかありませんでした。
両親は戦争で亡くなり、家は壊れ、戦後の苦境にある隣人に助けを求めるわけにもいかず、ましてや終戦で混乱している行政に頼ることすらできませんでした。少年らは結束して靴磨きやタバコの吸い殻集めをして生き抜いていました。
この写真が撮影される直前まで、少年らは地べたで寝ていましたが、数日前の台風で壊れた木材が手に入り、このように組み立てて雨露をしのげる居を構えることができました。
そんな少年らのリーダーであったオガサワラ・タカシ氏に当時のCARE駐日代表ジェレミー・ボワセベン氏から「CAREパッケージ(ケア物資)」が手渡されました。
弱い立場の人々へ優先的に
当時の「CAREパッケージ(ケア物資)」も現代のCAREの支援と同じように、社会的な弱者を優先して支援をしていました。
写真では、障がいを持つ夫を支えるヨコクラ・ヨシ氏が子どもたちにチーズを切っています。子どもたちはチーズを見たことがないので「石鹸だ」と言っていましたが、すぐに美味しい「石鹸」だとわかったようです。
はるばる地球の裏側からも
当時の神奈川県知事・内山岩太郎氏(写真右)がハラ・ロクロウ氏(左)とシマダ・エイコ氏(中央)に「CAREパッケージ(ケア物資)」を手渡しています。
1949年4月27日横浜にて撮影されたこの贈り物は米国からではなく、初めてブラジルの善意から届いたものです。
これからも続く、CAREパッケージの"精神"
1948年から8年間にわたり、1,000万人の日本人が「CAREパッケージ(ケア物資)」を受け取ったとされています。日本の復興の兆しを見た1955年12月30日をもって幕を閉じた後、1987年には日本にもCARE事務所が設立され、世界への恩返しが始まりました。
現代の「CAREパッケージ」は、その形態や規模も様々です。今日では、CAREの緊急支援物資は、途上国の自国経済を助けるために、極力、現地あるいは周辺国で調達されます。そして生活様式や宗教・文化へのよりきめ細やかな配慮がなされ、ますます多様化されています。
さらに、物資だけでなく、より良い教育へのアクセスを提供し、持続可能な農業を促進し、村人による貯蓄貸付組合への参加を通じて家計所得の向上を支援しています。
現代の「CAREパッケージ」は、75年前のそれとは“中味”は違えど、当時のパッケージに詰められた“精神”は今も強く息づいています。
「設立35周年記念募金」のお願い
ケア・インターナショナル ジャパンは2022年5月11日をもって、設立35周年を迎えました。
これからも私たちは、CAREパッケージの"精神"を持ちながら、困難な状況にある子どもたちや女性たちの今を支え、ともに、希望ある未来へと変化の歩みを進めていきます。
ご支援者の皆さまとともに歩んできた35年間の節目に、どうか、これからの活動への応援のお気持ちと、あたたかいご支援を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
関連情報
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公益財団法人 ケア・インターナショナル ジャパン
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