CAREの歴史

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CAREの歴史

歴史は、一つの小包から始まりました

1946年5月11日の夕暮れ時、フランス北西部の港町ル・アーヴルの船着き場に、茶色の小包が届きました。「CAREパッケージ(ケア物資)」 と呼ばれたこの小包は、第二次世界大戦で被災した欧州の親戚や知人に米国の市民が届けた緊急支援物資でした。

そのおよそ半年前の1945年11月、米国の22の市民団体が「The Cooperative for American Remittance to Europe(対欧送金組合)」を設立。戦後の欧州に緊急支援物資を送るために協力したことが始まりでした。当初送られたものは、食糧が中心でしたが、その後、石けん、木綿生地、シャツ、毛布なども加わり、さらには、医療器具、大工用具、左官工事や電気工事のための道具や材料、農作物の種子や農具などに変わっていきました。また、缶詰類が入っている場合には、缶切りも同封されているなど、細かい配慮が見られました。

日本にも届いたケア物資

横浜に事務所を設置

1947年、日本で昭和22年を迎える頃には、欧州12か国での復興のめどが立ったことから、CAREは、欧州向けの支援を終え、アジアに目を向け始めました。中でも戦禍の最もひどかった日本にまずその支援の手を差し伸べるべく、昭和22年10月29日、日本政府(片山内閣)との間で基本協定に調印しました。

そして、翌年の昭和23年5月、CAREは、廃墟と化していた日本の地に初めて足を踏み入れました。本部事務所を、現在の横浜市中区弁天通4-63におき、同年7月9日、貿易庁(現在の経済産業省)と実施協定を締結、ただちに活動を開始しました。

郵便窓口でケア物資を受け取る

日本に届けられたもの

米国から日本に届いたケア物資は、横浜港に陸揚げされ、仮倉庫に納められました。その後、郵便小包として各地に送られ、郵便局の窓口にて引き渡されました。これは、物資を必要としている人々に、直接かつ確実に届けるためにCAREが考えた方法でした。

10ドルで個人から個人ヘ届けられた支援

第二次世界大戦後の日本に対する米国等からの救済物資送付事業は、主に、ララ物資とケア物資に分けられますが、前者が団体から団体に送られたのに対し、ケア物資は個人から個人に送られました。

個人が10ドル程度をCAREに送金することにより、CAREが代理で送金者が指定した日本の個人に郵便小包として届けました。これは、個人が好きな時に送金するだけで、4か月以内に指定した個人に直接緊急支援物資を送ることができるという利便性を示しています。個人が指定されていない場合は、横浜の事務所の判断で、戦災孤児や戦争で夫を亡くした夫人など物資を最も必要している人々に届けられました。

戦争で親を亡くした少年にケア物資を届ける当時の事務局長

多くの日系人もかかわった支援

ケア物資の送金窓口は、米国のニューヨークやロサンゼルス以外にも、ブラジル圏内の2か所にも設置されていました。当時、ケア物資を送った人の多くは、日系人だったと考えられています。

それを裏付けるものとして、1949年(昭和24年)4月28日、衆議院において、松本瀧蔵議員(広島県選出)らにより、「ハワイ並びに北南米在留同胞及び日系市民の対日援助に対する感謝決議案」が提出され、直ちに可決されました。その本文では、「終戦以来、ララ物資、ケア物資、救済小包その他各種の形式により、ハワイ並びに北南米在留同胞及び日系市民のわれわれに示された援助は莫大な数量にのぼり、真に感謝に耐えないところである。これらの厚意がいかにわれわれの慰藉と激励となったかは今更いうまでもない」と述べられています。

1949年にブラジルで発行された「サンパウロ案内」というガイドブックに掲載された「ケアー慰問小包南米総代理店」の広告

さらなる発展を見せるCAREの支援

当初、日本に届けられたものは、食糧が中心で、乳児向け食糧、幼児向け食糧、標準食糧などと発育段階に応じて分けられていました。その後、日本の食文化にあわせ、パッケージの内容が改良され、 白米、味噌、醤油なども加えられました。この改良にも、日系人のかかわりが推測されます。
1949年(昭和24年)からは、日本全国の小学校を対象に食糧支援の一環として、学校給食用に脱脂粉乳の供給活動を展開しました。これは、当時の発育盛りの子どもたちに、脱脂粉乳を唯一の栄養源として安定的に摂取させていくために導入した、CAREの学童向け食糧支援プログラムでした。

また、国会図書館に当時の1,000米ドル相当の医学書および科学書を寄贈、さらに明治学院大学、津田塾大学などの教育機関や公共機関にも次々に書籍を贈り、その量と金額は相当の規模に達しました。その後、一般市民に送る生活支援物資の中にもその枠が広げられ、家庭内でも絵本などの図書を自由に手にすることができるようになりました。

こうして8年間にわたるCAREによる支援活動は、日本が立ち上がりの兆しを見せた1955年(昭和30年)12月30日をもって幕を閉じました。
1948年より8年にわたった支援金額は、290万ドル、1,000万人の日本人が支援を受けたといわれています。その後も、CAREの活動は、アジアや南米、アフリカなど支援を必要としているところに及んでいきました。

現代の「CAREパッケージ」は箱にはおさまりません

現代の「CAREパッケージ」には、米国製のミルクもウールも入っていません。今日では、CAREの緊急支援物資は、途上国の自国経済を助けるために、極力、現地あるいは周辺国で調達されます。そして生活様式や宗教・文化へのよりきめ細やかな配慮がなされ、ますます多様化されています。さらに、現代の「CAREパッケージ」は、その形態や規模も様々です。 CAREは、援助物資を配布するだけでなく、より良い教育へのアクセスを提供し、持続可能な農業を促進し、村人による貯蓄貸付組合への参加を通じて家計所得の向上を支援しています。現代の「CAREパッケージ」は、75年前のそれとは“中味”は違えど、当時のパッケージに詰められた“精神”は今も強く息づいています。

ケア・インターナショナル ジャパンの30年の歩み

1945年11月 第二次大戦の戦火に見舞われた欧州の被災者を救済するため、米国の22 の市民団体が「CARE」を設立。欧州の親戚や知人に緊急支援物資「CAREパッケージ」を送る活動を開始。
1948年7月 横浜にCAREの事務所を開設。横浜の事務所を拠点に全国の被災地に食糧や衣類の入った 「CAREパッケージ(ケア物資)」を送付。8年にわたり1,000万人の日本人を支援。
1982年1月 ケア・インターナショナル設立
1987年5月 ケア・インターナショナルのメンバーとして「国際援助団体ケア・ジャパン」発足
1992年11月 初のCARE支援組織「ケア・フレンズ岡山」発足
1993年7月 法人格を取得し、財団法人ケア・ジャパンとなる
2005年1月 インドネシアおよび周辺国への支援を目的に「スマトラ沖地震被災者緊急募金」を開始
以後、アジアでの自然災害による被災者や難民などへの緊急支援を強化
2005年7月 「ケア・インターナショナル ジャパン」に法人名変更
2010年2月 公益認定を取得し、公益財団法人ケア・インターナショナル ジャパンとなる
2010年11月 ガーナにおける乳幼児の栄養改善を目指した「BOP ビジネス」モデル構築に向けて味の素株式会社との連携開始
2011年3月 ケア・インターナショナル初となる先進国での支援として
「東日本大震災被災者緊急支援事業」を開始(~2013年3月)
2013年1月 ケア・インターナショナルが国際問題専門誌「グローバルジャーナル」のNGOランキング第7位、緊急人道支援を実施するNGOとしては第2位に選出
2015年4月 「第3回日経ソーシャルイニシアチブ大賞」大賞受賞
2017年5月 ケア・インターナショナル ジャパン創立30周年
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