CARE創立から80年:秘蔵写真とともにこれまでの歩みを振り返っていただけます

アーサー・リングランドとリンカーン・クラーク博士は、第二次世界大戦が終わり、世界の多くの地域が廃墟と化すなか、22のアメリカの慈善団体に、アメリカ人からヨーロッパの愛する人々へ食料を送るための非営利法人を提案しました。慈善団体はこれに同意し、1945年11月27日にCARE(Cooperative for American Remittances to Europe)を設立しました。複数の政府機関との交渉の末、CAREは280万食分の「10-in-1」軍用食料配給を手に入れました。この食料配給が世界初の「CAREパッケージ」となり、アメリカのシンボルが誕生しました。
「CAREという名前は、1945年秋のある晩、メリーランド州カレッジパークにあるリンカーン・クラークの家のファミリールームで生まれました。妻のアリス・クラークはアイロンがけから顔を上げ、夫のリンカーンが歩き回っている理由を尋ねました。彼は「食料救済のアイデアを表す単語を頭文字にした組織名を考えていたんだ」と答えました。「Cooperative(協同組合)、American(アメリカからの)、Europe(ヨーロッパ)の3つがキーワードだ。でも、C-A-Eは何の単語にもならない」そこでアリスはいいました。「そういえば物資はどう配布するの?必要な人に物資はどう届けるの?」リンカーンはそう問われ、彼が立てた活動計画を説明しました。するとアリスは「配給(remittance)という言葉を使い、組織名を 『Cooperative for American Remittances to Europe 』とすればいい。頭文字をとれば、それだけで意味のある言葉、CAREになる」といいました。これがCAREの名前の由来です。私たちの知る限り、アリス・クラークが受け取った唯一の報酬は、妻からの心からのキスでありました」 ーウォレス・キャンベル著「CAREの歴史」から

戦争終了後わずか半年で、CAREは最初の「CAREパッケージ」をフランスの港町ル・アーヴルに届けました。また、ハリー・トルーマン大統領、ハーバート・フーバー大統領、ドワイト・アイゼンハワー大統領が、アメリカ国民にCAREへの支援を要請し、年末までに、CAREはヨーロッパ10か国で活動を開始しました。
CAREは、羊毛やベビーフードなど他の種類のCAREパッケージを開発し、流通システム、地域営業所を作り、俳優ダグラス・フェアバンクス・ジュニアを起用したプロモーションを強化しました。1948年、ソ連軍がベルリンを包囲するなか、CAREは飢餓に苦しむベルリン市民に20万個の「CAREパッケージ」を空輸しました。そして、ミッションは韓国、フィリピン、イスラエルに拡大していきました。
「CAREパッケージ」には石けん、繊維製品、玩具も含まれるようになりました。活動が開始され、マレーネ・ディートリッヒ、グレゴリー・ペックなど有名人の推薦が続いていきました。1950年、CAREはユーゴスラビアの飢饉救済に参加し、パキスタンとインドに現地事務所を開設しました。また、耕運機や農具パッケージが開発され、自助努力による農業プロジェクトが始まりました。そして、朝鮮戦争救援も開始しました。



1951年、CAREはオーストリア政府からノーベル平和賞にノミネートされました。翌1952年、CAREはメキシコに最初のミッションを開設し、初の女性現地事務所長とともに中南米に進出しました。ドイツからの移民のための再定住キットを作成し、また、カナダ、中南米、ヨーロッパが「CAREパッケージ」の寄付の13パーセントを占めるようになりました。そして世界保健機関と提携し、医薬品の配布にも取り組みました。
1953年までに、CAREのユーゴスラビアと韓国における活動がピークに達し、韓国は、1か国における民間機関の単独救援活動としては最大規模となりました。また、ラテンアメリカにさらに5つの現地事務所が開設されると、CAREの 「E 」は“Europe”から “Everywhere”となりました。

CAREは1954年までにベトナムと中南米に事業を拡大しました。また、新しい法律が成立し、CAREが米国政府の余剰食料と輸送をより多く利用できるようになり、エジプトで余剰食糧の配給プログラムが始動しました。プログラムの多様化に伴い、「CAREパッケージ」が予算の25パーセントに縮小しました。
1955年はCAREにとって極めて重要な年でありました。戦後の復興がほぼ完了し、CAREはヨーロッパの現地事務所のほとんどを閉鎖しました。組織は解散を検討しましたが、42から20の活動に縮小することを選びました。エジプトでの配給プログラムが、これまでで最大の給食プログラムとなりました。

1965年からの10年間は、政治的勢力の変化や突発的な緊急事態に対応しながら、世界各地でCAREの存在が浮き沈みしていく様を目の当たりにすることになりました。CAREは、1956年の蜂起後のハンガリー難民を支援するために2年間の活動を行い、フィリピンで大規模な学校給食プログラムを開始し、ガザ、チベット、キューバでの戦争や迫害の生存者を支援しました。
ロンビア、ペルー、スリランカ、チリ、イラン、ベトナム、アルジェリア、ドミニカ共和国の自然災害にも積極的に対応しました。1961年、ジョン・F・ケネディ大統領は平和部隊を創設し、CAREに隊員の訓練を依頼しました。同年、ベルリンの壁建設後、CAREは再定住キットを提供しました。
この10年間で、CAREはリベリアとシエラレオネに、アラブ以外のアフリカで最初の事務所も開設しました。1963年、5,000万個目のCAREパッケージがコロンビアに届けられました。1965年末には、ポーランド、ユーゴスラビア、ギリシャがヨーロッパで唯一の活動国となりました。


1966年から1975年にかけての数年間は、「新しいCARE」への転換期でありました。この時期、CAREの家族計画プログラムがエジプトで導入され、インド、トルコ、ホンジュラス、パキスタンに広がり、地域コミュニティと連携した分担金による自助プログラムの先駆けとなる教育プログラムも実施されました。
1968年のテト攻勢後のベトナムへの100万ドルの援助を含め、ベトナムとナイジェリアのビアフラでの戦争救援活動が続きました。特にインド、東パキスタン(バングラデシュ)、ペルー、パキスタン、インド、フィリピン、ニジェール、ホンジュラス、ニカラグア、チャド、ドミニカ共和国、ハイチ、マリでは自然災害への対応が続きました。

1967年、CAREヨーロッパは、ケア・インターナショナルの前身となる組織を設立し、欧州のドナーから資金を集めました。最後の1億個のCAREパッケージを完売しました。より効果的な土地の管理を支援するため、農業・天然資源部門が設立されました。
1975年までに、欧州のミッションは消滅し、同年のサイゴン陥落により、ベトナムとカンボジアでのCAREミッションが終了しました。


1976年から1985年の10年間は、現地での運営を引き継ぐために現地スタッフの訓練と貢献に特に重点がおかれました。変化する世界のダイナミズムは、多くの場所でCAREの活動をより明確に定義づけました。
1979年のソ連のアフガニスタン侵攻により、CAREのアフガニスタンでの活動は事実上終了しましたが、パキスタンに逃れたアフガニスタンからの難民への活動は継続されました。またカンボジアからの難民がタイ国境のキャンプにたどり着き、大規模な支援活動が始まりました。
ウガンダでイディ・アミンが打倒され、1973年に活動を中断していたCAREの同国での活動再開が認められました。ニジェール、インドネシア、コロンビアを皮切りに、グアテマラでの植林プロジェクトを含む「地球のためのケア」キャンペーンを開始しました。そして、1982年、ケア・インターナショナルが正式に設立されました。

女性開発プログラムはバングラデシュで発展し、プライマリー・ヘルスケアや生計手段など国際的に拡大していきました。1983年、アフリカに干ばつが迫っていることが明らかになり、CAREは1984年を通じてアフリカ大陸で急速に活動を拡大しました。1985年、100年に一度の大飢饉がアフリカを襲いました。世界がこの危機に対応するなか、公的支援も増加していきました。
米国国際開発庁(USAID)は、CAREを通じて資本形成プログラムに資金を提供しました。保健プログラムにおけるプログラム活動が拡大し、CAREは食糧プログラム・ユニットを結成しました。

アフリカでの飢饉救済は1986年から1987年にかけて続くも、「援助疲れ」が生じ、現金寄付は減少しました。しかし、CAREは、干ばつ被災者への支援活動を継続し、植林や土壌保全を支援し続けました。CAREの管理体制は、地域管理ユニットと正式なセクター活動によって形作られました。1987年、フォーチュン誌は、CAREを「Best Managed Charity 」に選びました。
1988年、CAREは中国で活動する最初の西側援助機関となり、家禽や家畜の管理で農民を支援しました。同年、CAREはソビエト連邦で初の活動として、5万個のCAREパッケージを空輸しました。また、ルワンダとケニアで初のエイズ教育プログラムを開始し、10年にわたる戦争の後、アフガニスタンへの帰還を果たしました。
CAREの環境保護と食料配給活動は継続され、予防接種は50万人に達し、CAREは予防接種と乳幼児死亡率の減少において、10年間前例がなかった、活動の成功に貢献しました。また、CAREの人口ユニット(家族計画)が結成され、小規模事業開発プログラムが世界中で成長しました。
1991年、ペルシャ湾戦争の余波を受け、大規模な救援活動が続きました。CAREは一時的にCAREパッケージを復活させ、崩壊したソビエト連邦の冬の食料不足の間、飢えをしのぐために60万個を配布しました。また、CAREの環境および保健プログラム部門は、USAIDから複数の助成金を受け、大幅に拡大していきました。
また1991年、CAREはニジェールの農村部で、村の貯蓄貸付組合(VSLA)として知られるようになる小規模貯蓄プロジェクトを開始しました。今日、このモデルは他の開発組織にも採用され、サハラ以南のアフリカ全土に2,000万人以上のVSLA会員がいます。
1992年、CAREはソビエト連邦崩壊後、最大の拡大期を迎えます。翌年、CARE USAは本部をニューヨークからアトランタに移し、名称を 「Cooperative for Assistance and Relief Everywhere 」に改めました。
同じく1992年、CAREはソマリア国境に近いケニアのダダーブ難民キャンプの立ち上げを支援しました。CAREはこのキャンプにおける重要なパートナーであり、現在も世界最大級のキャンプとして、教育、食糧、その他の重要なサービスを提供しています。1993年、CAREはソマリアとアフガニスタンでの対応を継続し、増大する災害と紛争に対応するために緊急援助ユニットを結成し、公共政策とアドボカシー・プログラムが増加しました。
1993年、CAREは貧困との闘いにおける重要な変革の担い手として女性と女子に焦点を当てることを約束し、女性と女子を支える活動を始めました。

1994年、CAREはボスニアで学校プログラムを開始し、軍隊が占領したハイチへの食糧援助を続け、ルワンダでは民族虐殺とそれに起因する難民危機に対応しました。
ガザとヨルダン川西岸で自治が確立された後、CAREはパレスチナで事業を開始しました。アパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止され、南アフリカのプログラムも拡大しました。
1995年、設立から50年となり、資金とプログラム範囲において記録的な年を迎えました。その後2年間で、CAREは家庭の生計、地域パートナーシップ、強化されたアドボカシー・イニシアチブ、厳選されたグローバルな活動に焦点を当てたサービス提供モデルを採用しました。

当時は、冷戦後による複雑な人道的緊急事態が続いていました。経済破綻と内戦は、飢饉、暴力、感染症の蔓延、難民移動への道を開いていきました。
CAREは、エンパワメント、平等、持続可能性、市民社会の強化というプラットフォームを通じて、貧困を根本から解決するという課題に取り組みました。1999年、CAREはインドで、経済的理由や家庭の事情で不就学になった女子たちのための加速教育プログラムを開始しました。
「CAREは、貧困が克服され、人々が尊厳と安全のうちに暮らす、希望と寛容に満ちた世界を目指しています。私たちは、人々の尊厳に対する揺るぎない活動により、あらゆる場所で知られるようになるでしょう」ー2000年に採択された人権と貧困の原因に焦点を当てたCAREの現在のビジョン
2001年、CAREのロゴを当初の「スタンプ」から、現在も使用されている「手の輪」に変更しました。
CAREスタッフの90パーセント以上がその出身国で働いており、CAREは多様性と現地の革新性を促進しています。2000年、CAREはカンボジアで、思春期の女子に焦点を当てた教育プログラムへのアプローチを開発し、貧困と排除につながる政策を変えるために、地元や国の政府と協力することを試みました。これはやがて、世界中の数百万人の十分な教育を受けていない女子たちに手を差し伸べる、CAREのグローバルな教育ポートフォリオにつながりました。
2003年、CAREタイは、ラックス・タイ財団となり、開発途上国のCAREメンバーとして初めて、開発における地元の声を優先するよう統治されるようになりました。
2004年、USAIDは、バングラデシュにおけるCAREのStrengthening Household Ability to Respond to Development Opportunities (SHOUHARDO)プログラムに資金を提供しました。小児期の発育阻害による栄養不良を予防するこの活動の成功は、一般的な介入の2倍の効果を示し、USAIDを驚かせました。
2004年末は、30か国が紛争状態にあり、テロリズムの脅威、戦争による人的被害、HIV/AIDSの蔓延に対し、世界中のCAREスタッフが挑戦を続け、コミュニティ開発、緊急対応、リハビリテーション・プログラムを通じて、貧困のない世界を追求し続けました。
CAREは2005年、教育、緊急対応、HIV/AIDS、水と衛生という中核となるプログラムに戦略的に焦点を絞って活動を開始しました。同組織は、ONEキャンペーンの創設に協力し、全国的な支援者からなるCAREアクション・ネットワークを発展させました。また、ミレニアム開発目標へのコミットメントを果たすよう米国政府に圧力をかける重要な役割を果たし、津波後の援助と世界的な水危機を支援するために議会に出席しました。
2005年、イラクでCAREの現地事務所長が誘拐され、殺害されるという悲劇が起こり、CAREはイラクでの活動を停止しました。

2006年、CAREは、インド洋の14か国を襲った津波に対応しました。CAREは、主要な人道支援機関の一つとして、5か国で被災したコミュニティと協力し、家屋と生計の再建、経済開発の促進に取り組み、130万人以上の人々に支援を届けました。
2006年、CARE USAは、ピーター・ベルが10年で退任した後、ヘリーン・ゲイル会長兼CEOを迎えました。同年、「エンパワメントへの道(Pathways to Empowerment)」や、妊産婦の健康、教育とリーダーシップ、経済的機会といった特徴的なプログラムを通じて、女性と女子に焦点を当てた活動を本格化させました。
2007年、CARE USAは、食糧マネタイゼーション(反貧困プログラムの資金調達のために米国政府の食糧を公開市場で販売すること)の廃止を決定しました。2009年、CAREはラーニング・ツアー・プログラムを開発しました。ビル&メリンダ・ゲイツ財団の資金援助を受け、政策立案者、政府指導者、変革者たちを短期集中型の視察旅行に連れて行き、そこで米国の投資によって生活が一変している人々を視察しました。

2007年、CAREペルーは、画期的なキャンペーンを開始し、ペルー政府に栄養政策を変更するよう働きかけ、CAREのプログラムで実証済みの方法を採用した栄養不良と闘う新しい国家戦略の策定を支援しました。これにより、ペルーは過去10年間で慢性栄養不良を半減させることができました。
また2009年には、CAREのVSLAメンバーであるゴレッティ・ニャベンダがニューヨーク・タイムズ誌の表紙を飾り、「女性の十字軍」と題した大々的な記事で、女性と女子のエンパワメントによって世界の貧困と過激主義と闘う運動のリーダーとしてCAREにスポットライトを当てました。この記事は、ニコラス・クリストフとシェリル・ウーダンの著書「Half the Sky」を翻案したもので、ゴレッティとCAREも大きく取り上げられています。

2010年、CAREは、ハイチ大地震への対応で主導的な役割を果たしました。緊急対応として、CAREは、緊急救援物資を配給し、最初の4か月間で30万人以上の人々に、食糧、安全な水、一時的なシェルター、その他のサービスを提供しました。長期的には、ハイチの人々が再建し、生計を向上させ、将来の災害に対してより強靭になるよう、CAREは活動を続けています。
2011年、CAREは、南スーダンを国際的な国家共同体に迎え入れ、世界で最も新しい国に資源を与え、シリアで内戦が勃発した際には対応しました。CAREはまた、サヘル地域やアフリカの角における食糧危機や干ばつへの主要な支援者でもあります。

2014年、CAREは、米国農業法案を可決するために活動しました。この法案には、米国が海外の食糧緊急事態に対応する方法をより柔軟にする条項が含まれています。CAREは、食糧を地元で調達し、地元企業に力を与え、米国の納税者に負担をかけることなく、より多くの人々に食糧を届けています。また、同年には、CAREは、ヨルダンのアズラック難民キャンプで活動を開始し、シリア難民を受け入れました。
2015年3月、イエメンで内戦が勃発し、CAREイエメンのスタッフは人道的対応に転じました。同年6月、ヘレン・ゲールの退任後、ミッシェル・ナンがCARE USAの会長兼CEOに就任しました。
2015年9月、米国国際開発庁(USAID)は、CAREの「Strengthening Household Ability to Respond to Development Opportunities」(SHOUHARDO)プログラムの第3期を称え、5年間で8,800万ドルの資金を提供しました。またこの年、カーギル社とゼネラル・ミルズ社という、CAREの最も緊密な企業パートナー2社が、零細農家の生活向上とカカオの世界的供給強化のために協働を開始しました。

2016年、CAREは、VSLAプログラムの25周年を迎えました。緊急対応、食糧と栄養、女性の経済的エンパワメント、妊産婦の健康というカテゴリーに、部門別の活動をより合理化するために、プログラムの柱を採用しました。CAREは、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)に沿って、世界レベルでのインパクトを追求するための新しいツールを採用した最初の国際NGOです。それ以来、CAREは、6,400万人以上の人々の生活において、貧困から脱却した有意義な進歩を示すことができました。
2016年、CAREは、「CAREパッケージ」70周年を記念して、かつてヨーロッパで難民の子どもたちであった「CAREパッケージ」の元受領者の一部の人たちに、ヨルダンのシリア難民の子どもたちに心のこもった連帯の手紙を書いてもらいました。CAREの 「希望の手紙 」キャンペーンは、1万人以上の人々に難民への励ましのメッセージを書いてもらい、自身も第二次世界大戦中に難民となったマデリン・オルブライト元米国国務長官が、首都ワシントンD.C.で開催されたCAREの総会で、「CAREパッケージ」の元受領者と現在のシリア難民擁護者を表彰しました。

2017年、攻撃を受けたロヒンギャの人々がミャンマーからバングラデシュに逃れ、人道危機が深まりました。ベネズエラでは、インフレ、水不足、電力不足、栄養失調の深刻化により、何千人もの人々が国を離れ、近隣諸国に避難を余儀なくされています。どちらのケースでも、CAREは亡命を求める人々を支援するために行動を起こしています。CAREフィリピンは、台風ハイヤンへの緊急支援活動が評価され、ワールド・ハビタット・アワードを受賞しました。
2018年までに、気候変動が数百万人に影響を及ぼし、暴風雨がますます激しくなりました。2011年のシリア内戦に続き、イエメン、南スーダン、ミャンマー、コンゴ民主共和国など、世界各地で紛争が相次ぎ、世界的な難民危機が発生しました。

CAREのアドボカシー活動(特にアジアと中南米の現地事務所)は、ジュネーブの国際労働会議において、職場における暴力とハラスメントをなくすことを目的とした新しいILO条約の採択に貢献し、女性の経済的エンパワメントと暴力のない生活を前進させる活動に重要な役割をはたしました。
2019年、CAREはUDDAN(現SOAR)学校の20周年を迎え、アジアとアフリカでさらに300万人の女子を教育する目標を掲げました。
2020年、CAREはコロナ対策活動を、米国を含む世界60か国以上に展開しました。優先的な活動には、保健衛生キットの提供、公共の場への手洗い場の設置、不足している場所への安全な水の提供などが含まれています。COVID-19の大流行を受けて、CAREは、世界中に送られる寄付と、最前線で働く人々に送られるギフトカードという形で、「CAREパッケージ」を復活させました。
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