生きるチカラを信じて支える ケア・インターナショナル ジャパンは、貧困の根源の解決に向け、災害時の人道支援を行うとともに、「女性や子ども」に焦点をあてた活動を通して、最も困難な状況になる人々の自立を支援しています。

「3年目 -痛みの先に」フォトジャーナリスト 佐藤慧

©Kei Sato

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浜川目仮設住宅で活動を続ける「野の花の会」を訪ねた。暖かい季節には野を歩き、花を採集したり展示したりするそうだ。 冷たい風の吹く冬には、みんなで談笑しながら「切り絵」を楽しんでいた。笑い声の絶えない場所。(山田町)

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「同じものを作っても、みんなそれぞれ個性が出るからねえ」。みなさん、今まで作った「切り絵」は大切に飾ってあるそうだ。 活動が始まったのは震災後の避難所生活時代。仲の良い人々と一緒にものづくりに没頭できる貴重な時間。(山田町)

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昼食はそれぞれ持ち寄ったものを交換し合う。代々受け継いできた「田舎料理」は素材を生かした懐かしい味のするものが多い。 交わされる会話の中には、長く続く仮設住宅暮らしの大変さの滲むものもあるが、こうやって話ができることが何よりの息抜きになるという。(山田町)

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山田町船越のカキ小屋を訪ねた。食べきれない程のカキをおいしそうに頬張るお客さんに話を聞いた。遠くから来た方かと思ったら地元の方だという。 「この季節になると食べたくなる」と、嬉しそうにおかわりに手が伸びる。(山田町)

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沿岸の街々は、海のもたらした津波によって壊滅的な被害を受けたが、その海はまた、豊かな恵みをもたらしてくれるものでもある。 震災後、果たして海の幸を再び口にできるのはいつになるだろうと、多くの人々が心配していた。海はまた、豊かな恵みをもたらしてくれる。(山田町)

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コミュニティカフェに訪れた民謡の上手な山崎チエ子さん(右)は、高台に避難する途中振り返り、想像を絶するほどの波が街を飲み込んでいく様子を見たという。 「千年に一度の津波が、まさか私が生きてる間に来るなんてねえ。でも、千年に一度の津波とはいっても、次がまた千年後とは限らないものね。 もしかしたら明日それが起こるかもしれない」。(山田町)

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どれだけお金を出しても買えないもの、そのひとつが過去の思い出を写した写真だ。津波に呑み込まれた写真の中には、丁寧に洗浄され保管されているものもあるが、その大量の写真の中から、自分の大切な瞬間を見つけることは「宝くじに当たるようなもの」だという。 この日、奇跡的にそんな中の1枚が見つかった。(山田町)

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被災地の障害者支援を続ける「結人(ゆいっと)」の黒柳さんは、「障害者と人は呼ぶけれど、別に差別される必然はない。 みんなそれぞれ、素敵な魅力を持っているんです」と語る。人が人らしく在れる社会のために、出来ることを真摯に行っていく。 地域にとっても必要不可欠なこの活動に対する助成金は、来年度以降目処が立っていない。(宮古市)

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佐々木さんの実家は津波によって船が突っ込み半壊状態だという。求人を見て「結人」の仕事について彼女だが「私のほうがいつも学ぶことばかりで、本当に幸せな職場です」 と嬉しそうにいう。体を動かせない方の代わりにページをめくり、笑顔を交わす。寒い冬の、暖かな空間。(宮古市)

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釜石望鈴(みすず)さんの大切な故郷、大槌町吉里吉里(きりきり)は、湾の正面に続く平地の街並みがごっそりと姿を消していた。 震災当時中学生だった望鈴さんは、「後ろを振り返る余裕もなく必死に高台へと逃げた」という。(大槌町)

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「小さい頃からよく遊んでいた砂浜」では、大きな防波堤のブロックが静かに波に打たれていた。 各地で議論されている「スーパー防波堤」は吉里吉里の未来をどう変えていくのだろうか。 一節によると吉里吉里とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味するという。「海の見えない街にはしたくない」という声も多い。(大槌町)

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吉里吉里には「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったともいわれる「蓬莱島」がある。島までの桟橋は津波によって破壊されたが、現在復旧工事が進んでいる。 島には神社があり、そこには弁天様が住んでいるという。「前の津波の時にこの側で、どこからともなく聞こえてきた女性の声の導きで命を救われた漁師さんがいるんです」。 それは弁天様の声だったのかもしれないと、吉里吉里の人々は語り継いでいる。(大槌町)

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一体どれほどの破壊力を持った津波が到来したらこのような破壊の傷跡を残せるのだろうか。そんな恐怖におののいてしまうほどの無残な光景が、今もあちこちに残る。 「想像を超えた津波だった」と人は言う。人間とは、そもそも自然からしてみたら本当にちっぽけではかないものではないのだろうか。(釜石市)

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僕の知らない街並みを「結人」の黒柳さんに案内していただいた。「ここは小さいけど駅前通りだったんだよ」「ここに残っていた古い町並み、見てほしかったなあ」。 眼前に広がる茶色い平野を眺めてみても、震災以前を知らない僕にはその街並みが、日常が浮かんでこない。 津波はそこに受け継がれてきた記憶や文化も呑み込んでしまったのだ。(田老町)

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戦争も経験している柿崎さんは「人生っていうのはね、こういうことが起こるんだよなあ、何もかも失ってしまう瞬間っていうのをさ」と、震災当時を振り返りながら呟いた。 「黒い山がね、盛り上がってきたんだ。それが海底から吹き出てきた巨大な津波だってことに、すぐには気付かなかったよ」。仮設暮らしも2年半を超えた。復興住宅完成の見通しは未だに立っていない。(田老町)

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処理の終わらないがれきの山の向こうに、太平洋を望む「釜石大観音」の姿が見えた。あの観音像は、どんな気持ちで津波の到来を見ていたのだろうか。 あれだけ連呼されていた「復興」という言葉でさえ、首都圏では過去の言葉のように響いてしまう。道のりはまだまだ遠い。朝焼けの中、凛と立つ観音像にそっと手を合わせた。(釜石市)

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子育て中のお母さんの集まるカフェ、「TANNA(タンナ)」を訪れた。 「あお!あお!」と1歳10か月の蒼甫(そうすけ)くんが見ているのは、電気配線の工事に周る青い災害復旧車両だった。車の好きな蒼甫くんにとって、町のあちこちを走る車はいろいろな仕事をカッコよくこなす憧れの「働く車」なのかもしれない。(山田町)

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「TANNA」に集まるお母さんたちは、ここで同じ子育て仲間と談笑することをいつも楽しみにしているという。 「こどもを遊ばせようと思っても公園がないんですよね、こうやって安心してこどもを遊ばせることのできる場所があって助かっています」。(山田町)

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「同世代の友達と遊ぶことで、きっといい経験にもなっているんでしょうね。実は他の子には意地悪だったりしたらどうしようかなって、 少し不安もあったんですけど、意外と譲り合ったり一緒に遊んだり、家庭では見れないこどもの姿も見れて嬉しいです」。 暖かな環境で育てられたこどもたちは、自然と仲良く遊んでいた。(山田町)

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「やっぱり早く町が復興してほしいという想いはあります。この子たちにとって故郷となるこの場所が、何も無い殺風景なままだと可愛そうだなって」。 今回の取材を通じ、耳をふさぎたくなるような悲惨な話も沢山聴いた。しかし、ここで出会った子どもたちの瞳を見ていると、そこには未来が映っているように思え、暗い気持ちも洗われるようだった。 簡単な道のりではない。それでも、人々は前へと進む。(山田町)

「3年目 -痛みの先に」フォトジャーナリスト 佐藤慧

あまりにも終わりの見えない取材に息苦しさを感じていた。
2011年3月11日。忘れることのできないあの日、東北の海は巨大な水の山脈となり沿岸各地の街々を呑み込んだ。甚大な被害を受けた被災地のひとつ、岩手県陸前高田市に住んでいた両親の安否を確認するために、僕は早々に荷物をまとめて飛行機へと飛び乗った。当時僕は、アフリカ大陸南部の国々で、資源を巡る紛争の取材を進めているところだった。想像を絶する光景がメディアを通じて世界中に配信された。降り立った日本は冷たく暗く、やっとのことで辿り着いた現地で再会したのは、生きる意志が削がれる程に意気消沈した父と、冷たくなった母の躯だった。目に映る光景全てを埋め尽くす瓦礫と、脳の深部を突くような腐臭を忘れることは生涯ないだろう。

あれから3年という月日が過ぎ、改めて震災と向き合う時間を頂いた。縁のあった陸前高田市へ通うことは続けていたものの、他の地域に赴くことは稀だった。とても、全てを把握することなどできないほど大規模な災害だったのだ。「復興」という言葉は、既にどこか擦り切れてしまったかのように響く。日本全土が東北に、被災地に、傷ついた人々へとエールを送った。3度の季節が巡った今、人々はどのように「復興」という言葉と向かい合っているのだろうか。

沿岸を車で駆ける。海沿いの国道は、時に清々しい朝日と、その輝きに揺れる海とに面した美しい道だ。しかし、その傍らに存在していたはずの街の姿は見えない。積み重なった瓦礫は撤去されたが、家々の基礎が剝きだしになった茶色い平野は、痛みよりも、何かが抜け落ちてしまったかのような虚無を感じさせた。

車を降り、歩いてみる。人々の目線に立ち、街跡を歩いてみる。ところどころ、再建した店に立ち寄ったり、仮設住宅で開催されているコミュニティカフェに伺ったり、そこにいる人々の声に耳を傾けた。「母の遺体と共に夜を過ごした」、「まるで山のような津波に現実感が希薄だった」。厳しい現実があるのは確かだが、そこは空っぽなだけの虚無の世界ではないとすぐに気づいた。必死に前へと進もうとする人、誰かの力になれないかと尽力する人、新しく育ちつつある命。震災後に子育てを始めたお母さんたちに話を聞いた。「この子たちの故郷となるこの街が、少しでも温かな街になってくれたらと思います」。

「復興」という、途方もなく大きな言葉の影に隠れてしまいそうなほどに小さな、小さなそれぞれの一歩だが、その一歩の積み重ねが、いつか未来へと繋がるのだろう。痛みから目を逸らすのではなく、その痛みゆえに、温かな未来を築いていく。人間には、そんな力があるのだと信じている。

佐藤 慧氏(プロフィール)

1982年岩手県生まれ。米国のNGOに所属して、南部アフリカ、中米の地域開発事業、ザンビア共和国の学校建設プロジェクトに携わる。
2010年studio AFTERMODEに入社し、フォトジャーナリストとして活動を開始。写真と文章を通じて、人間の可能性、命の価値を伝え続けている。
2011年世界ピースアートコンクール入賞。

CAREフォトギャラリー「~Lolo sae~ 東ティモールの日の出」